歴史に名を刻む王たちの中には、その評価が賛否両論を呼ぶ人物もいます。エセルレッド2世(978年 - 1016年)はその一人であり、「無策王」という異名で知られています。彼の時代には、デーン人が再びイングランドを脅かし、王国は混乱の渦中にありました。エセルレッドはその状況にどう立ち向かったのでしょうか?本記事では、エセルレッドの生涯と苦闘の記録に迫ります。
エセルレッド2世は、父・エドガー平和王(943年 - 975年)の後を継いでイングランド王となりました。しかし、彼の治世は早くも不穏な影を落としました。幼少での即位は政治的経験不足を露呈させ、政権内部の不協和音を生む結果となったのです。エセルレッドは知恵と実力を持つ王として期待された一方で、後に「無策王」と揶揄されるようになりました。
エセルレッドの時代において、最も大きな問題は再び活発化したデーン人の侵攻でした。8世紀から続くヴァイキングの活動は、9世紀末には一時沈静化しましたが、10世紀後半に再び活況を呈しました。
エセルレッドはヴァイキングの攻撃に対応するために、ダンゲルドという特別税を課しました。この税収は、侵略者への賠償金として使われることが多く、彼の政策は防衛というよりも「一時しのぎ」として批判を浴びたのです。こうしてみると、彼の戦略には長期的な視点が欠けていたと言えるでしょう。
エセルレッドの下では、一部の貴族が王の権威を軽視し、裏切りや内部抗争が相次ぎました。これがデーン人との戦いを一層難しくし、国内の結束を欠く原因ともなったのです。王としてのエセルレッドの指導力が試された時期でした。
1002年、エセルレッドは「聖ブリスの日の虐殺」とも呼ばれる命令を発し、イングランドにいたデーン人の殺害を命じました。この事件はデーン人の報復を引き起こし、のちにデーン王・スヴェン1世(960年 - 1014年)の侵攻を招く結果となりました。
エセルレッドは批判を受ける一方で、一定の努力も認められます。彼は国内の要塞建設を推進し、軍事力を強化しようとしました。しかし、戦略の整合性が欠け、デーン人の勢力を完全に抑えるには至りませんでした。
エセルレッドの息子であるエドマンド2世は、父の遺志を継いで奮闘しましたが、父の不安定な治世の影響が重くのしかかりました。最終的に、エセルレッドの後継者たちはデーン人に対する劣勢を強いられたのです。
エセルレッドの失敗は、イングランド王国にとって大きな教訓となりました。彼の治世を反面教師とし、後の王たちはより強固な防衛体制と外交戦略を採用するようになりました。
現代の歴史家は、エセルレッドを無能と一刀両断にはしません。彼の治世には不安定な状況や外的要因が絡んでおり、当時の王としての限界も理解されます。しかし、「無策王」としてのイメージが強く残った理由は、彼の短絡的な対応にあると考えられます。
以上、エセルレッド2世についての解説でした!
ざっくりと振り返れば
・・・という具合にまとめられるでしょう。
ようは「エセルレッドの治世は戦略と国内統一の欠如が明暗を分けた。」という点を抑えておきましょう!